めぐりめぐる。

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静寂

生きて欲しいと言われたので、生きている。生かされている。

 

社会のセーフティネットや、親や、妻や、動物に助けられている。

 

結局、どうしようもなく、生きるべきなのだということを痛烈に感じざるを得ない。享受しなければいけない。

 

社会に甘やかされ、寝たきりでも生活ができる。

 

スーパーに行くと、加工されてすぐに食べられる肉や魚がある。米がある。

 

豚しゃぶ肉を茹でるのが簡単で、僕はよくうどんやそばと一緒に食べる。でもこの豚しゃぶ肉は、もともと生きていた豚だった。大事に育てられていた豚だった。その豚が殺され、出荷され、加工され、自分の手元にある。その不自然さが、たまらなく辛い。

 

所詮何もできない人間であったのだと、突きつけられている気分だ。生きることの本当の辛さを知らずに、生きることの本当の厳しさを知っている人が育てて殺して解体して頂いた豚しゃぶ肉を食べて、無力さを感じている情けなさ。辛さ。切なさ。

 

僕は長らく、海外の精密機器を日本に輸入して販売する営業だった。他人が作ったものを、なるべく高く売る。自社製品でもない。作り手の想いも知らない。そんな空っぽなものを何台も売って売って売りまくった。目標に対して150%以上の利益を出したこともあった。たぶん運が良かっただけ。そして、非常に無意味だった。人が作ったものを、流しているだけ。また、ひどく不自然だった。そして僕は病気になった。必然だったのかもしれない。

 

☆☆☆

 

自立支援制度という国のセーフティネットがあり、ものすごく簡単に言うと特定の病気において医者にかかった時の受診料、薬代が三割から一割になる。僕はそれになんと言うか合格し、その資格を得た。そして病院に行ってひどく驚いたのだけど、結果的に僕の負担額は0割、つまり無料だった。どうやら市町村によって対応は変わるらしいのだけど、僕が住んでいる場所ではその町に住んでいる人達によって負担されるらしい。

 

でも僕はそれにひどく後ろめたさを感じてしまった。一割くらいせめて払うのにな...と。みんなにも知って欲しいんだけど、世の中には「もらえるものは全部もらっておけばいい」と思うタイプと「国や人に生かされていることに後ろめたさと窮屈さを感じる」タイプがいる。そして僕は後者であり、後者の人間もたくさんいるのだということをどうか覚えておいて欲しい。あなたが出してくれる社会保険に、頭が上がらない人もいるんです。

 

もう3ヶ月もすると、僕は障害者手帳と呼ばれるものを申請できる資格が得られる。様々な施設を安く利用できたり、交通費が安くなったりする。でも、どうしようかなって思う。

 

障害者手帳なんか持ちたくないのに、無理やり作らされて泣いている女の子もいる。そういうことだってある。僕たちは少なくとも現状をなんとかしたいと思っているし、自立したいと思っている。だから「自立支援制度」と呼ばれるわけだし、そうすべきだと思う。

 

国が教育でこうした制度を広くうたわないのは、はっきりいってこうした仕組みを悪用する人が出るからだと思う。インターネットが普及して様々な人の思想が見える中で、どうしても「もらえるものはもらっときゃいい」という強い思念が見えがちなんだけど、世界の片隅でもがいている僕たちもいるってことを、時々でいいから、思い出して欲しい。

@各位 死んでない

死んでねーよ。死んでるようなもんだけどな。

 

2月に大事な人に会わないといけないんだけど、「それまでに死んでないといいですね」って皮肉を言ってやったら「じゃあまた連絡するねーん」って返事がかえってきて、ああ俺はもうこいつにとってどうでもいいんだな、死んでもいいと思われてるんだなと思った。大切にしてきたつもりだったけど、もうしらねーよ。大事じゃねーよ。

 

やっぱ死んでやろうと思うんだけど、死んでも復讐にならないなんてつまんなくない?たぶん勝手に死んだわこいつって思われるだけだよね。ノーダメージだったらやる意味なくない?腕切ったほうがいいのかな?切り落としたほうがいいの?よくわかんねーけど。

 

なんかやってきたことの何もかもが無駄に思えてきて、この何年なんだったんだろうって。俺を大事にしてくれる人にそばにしてほしい。孤独だ。甘やかされたい。大丈夫だよって言われたい。だって大丈夫じゃないもん。でも大丈夫じゃないって言えないんだわ。助けてって言えねーの。言いづれえんだわ。迷惑はかけたくねえって感情だけはあんの。残念ながら。

 

「行こうか?」じゃねーの。かってにこいよ。助けにこねえなら何も言うんじゃねえよ。傍観者でいろよ。いい奴のふりすんなよ。ばっかじゃねーの。

 

だんだん自分の中で何かが死んでいく感覚があんだよ。殺さねーといきていけねーんだ。考えるほど辛えんだもん。TV見てもラジオ聞いてもツイッター見てもよぉ、正論ばっかりでうぜえ。俺は「わかる」しか言われたくねーわ。お前の意見なんか聞きたくねーよ。第一な、なんで自分が正しいってわかるんだよ。何かが間違っていることすらぎりぎり気づけて人間だろ。何が正しい、何が正義かって何様だよ。

 

そうだよ、お前ら何様なんだよ。ああだこうだいいやがって。バーカ。いいよなお前らは嫌いなやつがいっぱいいて。嫌いなやつがいっぱいいるってことは、社会でうまくやってるってことらしいぞ。よかったな。よかったな社会の歯車から外れなくて。運がよかっただけだと思うけどな。生まれた股も良かったんだろ。ラッキーだな。

 

社会のセーフティネットで生かされるのもなかなかの地獄だぞ。お前らの社会保険で食う飯はうめえわ。まあ俺も払ってきたけどな。払ってきた以上にもらってる気もするけどな。しょうがねえだろ、国が金くれるって言うんだからよ。お前をとりあえず生かすわって言われて、生きていくためのぎりぎりの金くれてさ、家にこもってんだよ。なんだよこれ。あと1年で終わるけどな。くたばる前に、なんか仕事ができるといいけどな。

 

大っ嫌いだよ。

自分で決めやがれ、とさ。

砂漠で出会うような、もう二度と会わないような相手に対して、心からの贈り物をしなさいというような諺があった気がする。出会いは一期一会、もう会うこともない、刹那、その一瞬に対して最大の愛を送る。それは人生において大事なことなんですよ、みたいな言葉があるらしい。

 

一方、日本の社長で「俺はタクシーの運転手に釣り銭を渡すようなバカなことはしない」と言う人もいる。その人は一代で会社を上場させ、富を築き、人生を成功させた。その人曰く「もう会わないようなやつになぜ親切にするのだ、俺は可能性のあるやつに愛を注ぎたい」みたいなことを言ったらしい。

 

どちらも、正しいのだろう。とっても、正しいのでしょうね。

 

だからね、間違っていることは何とか理解できても、正しいことなんて人には理解し得ないということなんだよ。悲しいよね。

 

結局全部自分で決めるしかないわけ。誰かの言葉に寄り添って、人の生に頼って、生きるしかないわけ。そういう原罪を俺たちは抱えてるわけ。

 

考えるのは放棄したくないけど、時々すごく虚しくなって、何もかも投げ出したくなるような衝動が一瞬あり、その後生きる希望も少し湧いてくるのはなんなの?人間ってなんなの?

 

いい加減にして。

人生は選択の連続だ

金をおもいっきり稼ぎ、独立し、社長になるという夢がある。

 

その一方で、今、とてもぬるい会社員生活を送っているが、週に2回のテニスと楽しい自炊とベースを弾いてそれなりに幸せを感じてもいる気がする。

 

選択を迫られている。

 

俺はどちらにもなれる。切り開くのは自分だからだ。決定するのは神の意志ではなく、自分自身であり、結果を受け入れることができれば、前に進める。いやなことから逃げ続けるのではなく、「ああしたい、こうしたい」という想いを大切にして生きる。短い人生の中で、輝くことができるか。問われている気がしてならない。

 

若いと人生はやり直しがきくという話を聞かんでもない。ないが、それは無責任な言葉であろうよ。いわゆる"成功者バイアス"というやつだな。どん底からたまたま這い上がれたやつがマウントをとるために俺たちにアドバイスをしている。が、最後に決めるのは俺なのだよ。だって俺の人生なんだもの。お前のじゃないし。

 

何もかもが自分が決定できるとわかった時、世界は広く感じる。だが、落とし穴もあるんだろう。ある種の物事は、後戻りが難しいからだ。あるいは、深く傷つき、長い間痛みを発するような何かが起きるかもしれない。それはわからん。でも、前に進むしかないんだろう。

 

正解はない。なんてつらいんだろうね。人の知恵なんてこんなもんですか。残念ですね。仕方ないからもがくことにするよ。

 

ライティングタイムアタック : 3分41秒

野菜350g取ったし運動したし瞑想もしたけどメンタルがだめになっていく

野菜350g取ったし運動したし瞑想もしたけどメンタルがだめになっていく。

 

睡眠もちゃんとキープしているが、不安定だ。突然怒りが湧いたり、悲しくなったり、勇気が湧いたり、湧いたものが溢れて吐いたりする。困ったものだ。

 

ゼブラ先生は野菜と運動と瞑想があれば何とかなるとおっしゃっていたが、一度メンタルをやってしまった人間は無理だと思う。重い鎖に縛られて、解けない。それでも踠いて、外してみると、気づいたら別の場所に鎖がついていることに気づく。繰り返しだ。

 

言葉は溢れ、頭の中を駆け巡り、口は動き続け、いつか倒れる。そんなことを繰り返し続けている。考えた先から考えが繋がり、それは木の根のように広がっていき、分岐し、収拾がつかなくなる。いつものことだ。

 

俺が喋る言葉を、俺自身が聞いている感覚。ちょうど俺が大学生の時だ、落研で落語を披露していていた時の感覚だ。感覚が研ぎ澄まされてくると、俺を見下ろす俺が現れ、喋りながら考え、考えながら喋るということが可能になる。つまり制限がない。終わりがない。考えは無限に広がりを見せ、留まるということをしらない。俺は困惑し続ける。

 

なあ、もう終わりにしたいんだが。