めぐりめぐる。

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又吉直樹「火花」感想

 

はじめに

出版されてから大分時間が経ってしまいましたけど、芥川賞を受賞した又吉直樹の「火花」を読んだので、その感想を書きたいと思います。

 

ちなみに「芥川賞受賞作品」なんて言葉を見ると恐縮して本を手に取るのを躊躇ってしまう人もいるかもしれないので説明すると、芥川賞とは純文学の新人に与えられる登竜門みたいなものなので、肩の力を抜いて読まれると良いかと思います。本作品は中編小説に辺り、ボリュームも多くありません(1時間程度で読めます)。

あらすじ

徳永(主人公)は売れないお笑い芸人として活動している時、先輩芸人の神谷という人物に出会う。神谷のお笑いに対する姿勢や生き様に驚き感心した徳永は神谷に弟子入りを申し込む。神谷は「俺の伝記を書くこと」というのを条件に徳永の弟子入りを認め、お笑いについて2人でよく語り合うようになる。

感想と神谷という人物について

とても軽快なテンポで関西弁のボケとツッコミが本の随所に散りばめられていて、思わず笑わずにはいられない作品です。文字だけでこれだけ笑わされてしまうなんて悔しいと思いながら読んでしまいました。関西人って、いつもこんなノリで暮らしているんだろうかと思うと可笑しくてしょうがなかった。

 

徳永という今回の小説の語り手となっている人物は、とても真面目な人間です。客に対してどんなことがウケるのか考え、悩みます。ところが自分のお笑い感が崩れてしまう瞬間がある時訪れるわけです。神谷との出会いですね。

 

神谷は人生そのものがお笑いであるかのような人物なわけです。「お笑い界では先輩が後輩に絶対に払わせてはいけない」というルールを自分に課していて、わざわざ借金をしてまで徳永を飲みに連れて行く。お笑いのネタは客にウケそうなネタをやるのではなく、自分が「面白い」と信じていることを思いっきり演じて、それが駄目なら客が悪いと一蹴する。常識を覆し、「こういった掛け合いはウケる」ということを一切廃して、人が生きていることについて面白いことを切り出し、全力で挑む。そのパワフルさと生きることに必死な神谷を見て、徳永は尊敬と畏敬の念を覚える。

 

「準備してきたものを定刻に来て発表する人間も偉いけど、自分が漫才師であることに気づかずに生まれてきて大人しく良質な野菜を売っている人間がいて、これがまず本物のボケやねん。ほんで、それに全部気づいている人間が一人で舞台に上がって、僕の相方ね自分が漫才師やいうことを忘れて生まれて来ましてね、阿呆やからいまだに気づかんと野菜を売ってまんねん。なに野菜売っとんねん。っていうのは本物のツッコミやねん。」

【引用】又吉直樹(2015). 火花 株式会社文藝春秋 pp17

 

ひょっとしたら客も気づかないようなものを自分達で表現する。それがお笑いというものだと神谷は言う。あらゆる日常からお笑いは生まれてくる。漫才とは偽りのない純正な人間の姿だ。だからそれを表現できるのは賢い奴ではなく、面白い阿呆とその阿呆を表現できると思っている阿呆によってお笑いは構成されている...と述べているシーンがあって、とてもおもしろい。

 

僕は大学時代に落語研究会に入っていたから今でもよく落語を聴くんだけど、大好きな落語家の立川談志がこんなことを言っていたのが印象深くて心の奥底に大事にしまってあった言葉がある。

 

「落語とは人間の業の肯定である」

 

落語を聴くとよくわかるのだけど、落語というのは登場人物に対してあれこれと説教を加えるような講釈がましい話というのはなくて、ただひたすらに肯定なんだよね。「人間ってこういうものだよな、本当に駄目だなあ、滑稽だなあ」という人が生きていく上で体験していくことを肯定していく。人の日常を愚直に、丁寧に切り出し、演じることで自然に笑いにつながっていく。「笑いとは想像力によって生み出されるのではなく、ただあるがままを描写することにある」。本の中の神谷という人物が言っているのは、こういうことなんじゃないかと僕は思った。

 

芸を極めることのリスクと絶望

神谷が最低限の銭しか持たず、わずかな日雇いの仕事以外はお笑いのことに時間を費やし、借金まみれで面白可笑しく過ごしていることに関して、徳永が絶望するシーンがある。徳永は自分がコンビニの深夜のアルバイトをやったりして、生活とお笑いの生活のバランスを取っていることに引け目を感じる。何というか「お笑いに対して全力ではない自分」というのが神谷という人物を通して浮き彫りになってしまい、自分の生き様を恥じる描写があって、僕は痛いほどその気持がわかった。必要なもの以外の何もかも捨てて、1点にエネルギーを集中させることの難しさ。

 

それは普段の僕の生活の中にもある。サラリーマンとしての僕の働き方と、上司であり社長である人の働き方の違いを見てそう思う。僕は今の仕事がどうしても好きになれず、だいたい毎日のエネルギーが「仕事:7」「プライベート:3」ぐらいに割り振られている。つまり全力で仕事をしていない。一日の中で「今日はここまで」という線を自分で引いてしまい、ブレーキをかける。

 

ところが社長はそうではない。仕事10以上のポテンシャルで働く。徹夜で何日も仕事をする。ところが社長はその働き方の中にも「楽しさ」を見出し、苦労はしているけどやりがいを持って働いている。自分がここまで熱心に働けないことに、絶望を感じる。

 

阿呆に、愚直に、脇目もふらず頑張ることの美しさと、その裏で支えられているものの無残な姿がある。借金まみれなのに飯を奢ってくれる神谷の生き様の格好良さの裏で、家にお邪魔すると安いカップラーメンのゴミが散乱している姿を見てしまうこと。会社として成功していることをPRする社長が、その裏で3日寝ずにヒゲを生やし血眼で仕事をする姿を見てしまうこと。

 

生きることの絶望と希望、悲惨と栄光がこの本には表現されていて、素晴らしい。