めぐりめぐる。

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【徒然草第一段を読んで】とある美人の底意地の悪さを思い出した、という話

最近徒然草を読みますと宣言をしたので、少しずつ読み進めています。

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徒然草を読みながら、僕が日々考えたことや感じたことをお話するコーナーにしていこうと思っています。最初は書評にしようと思ったのですが、まとまった時間で徒然草を読むのが難しいので、ある程度のまとまりを読んだら感想書くスタイルでしばらくの間は記事を投稿していきます。

 

今日は徒然草第一段でございます。

 

原文

いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事多かんめれ。御門(みかど)の御位(おんくらい)は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様(おおんありさま)はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方(しもつかた)は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

 

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。『人には木の端のやうに思はるるよ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢(いきほひ)まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(そうがひじり)の言いけんやうに、名聞(みょうもん)ぐるしく、仏の御教(みおしえ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

 

人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣り(こころおとり)せらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ざえ)なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ

 

ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職(うしょく)に公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男(おのこ)はよけれ。

西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫)より

 

僕の簡単な現代語訳(正確ではありません)

この世に生まれたからには、理想とすることは多い。一番良いのは、天皇の位で、これは恐れ多い。天皇は子孫まで特別であり、一般人とは違うのだ。摂政・関白が理想の職位で、舎人(朝廷の警護をする人)になれれば素晴らしい。例え落ちぶれてしまっても品がある。だけどそれより低い身分であるにも関わらず、したり顔をして自分が偉いもんだとふんぞり返っているのは見ていて残念だ。

 

僧侶ほど羨ましくない職業はないと思っている。木の端のように取るに取らない存在よ、と清少納言が言ってるのは最な話だと思う。勢いに任せて権威を手に入れるようでは僧侶ではない。増賀聖が言うようにみっともなく、そうした姿は仏教の教えに反しているからね。僧侶は一途に修行に励むことが理想なのだ。

 

人は容姿の美しいものが良いというけれど、物言いがしっかりとして、話が聴きやすく、愛敬があって言葉が少ない人とは飽きずに付き合うことができる。美しい人の醜い部分が見えてしまう時こそ、勿体無い、残念だと感じるよ。容姿は生まれつきのものだけど、心や振る舞いは後からついてくるものだ。美しい容姿も、教養がなく下品であれば、醜い人に巻き込まれてつらい思いをするに決まっている。

 

望ましいのは、作文や和歌、楽器ができることだ。人の手本になれるようなことが良い。書道の心得があって、歌が上手で、つつましく、程よく酒が飲める男が一番だよ。

 

感想

吉田兼好は元々は神社の神職出身で、歳を重ねていく中で出世して天皇の近くで働くようになり、最終的に出家したという話があるから、第一段ではこういった内容をつらつらと書いているんでしょうね。

 

ちょっと先に吉田兼好という人についてしっかりと知識をつけてから徒然草を読んだほうが面白そうです。彼に感情移入しながら読むと、違った世界が広がりそうで、ちょっとわくわくしています。

 

そして僕がこの一節の中で一番感慨深かったのは、人の容姿について語っている部分についてですね。僕も歳を重ねていく中でこういった想いをしたことがあって、なかなか強烈な体験として身に刻まれていることがあります。今日はそれについて書きたいと思います。

 

第一段を読んで僕が思い出したこと(ようやくタイトルの内容)

僕がソフトウェアの開発エンジニアとして第一線で働いている時に、取引先の女性デザイナーの方と打ち合わせをすることになった。
その人は控えめに評価しても美しい容姿で、スーツだろうがジーパンだろうが何を着ても似合う細身で身体のラインが綺麗な人で、男であればすれ違った時にふと振り返って後ろ姿を追いたくなるような雰囲気を持っていた。

 

デザイナーとして成功していて、数々の企業から引っ張りだこ状態。その様子を見た会社の社長が「こいつは逃しては駄目だ」と役員待遇の給料を払い、会社の入っているマンションの一室を貸してやり、毎日9時から26時まで一生懸命働いているといった按配だった。「常に必要とされている」という状況は人を輝かせるし、仕事が自分に集中することで大変さもあるが「自信」もたっぷりと付き、綺麗な容姿と合わせて一つの完成されたビジネスウーマンとして確固たる地位を獲得していた。齢三十過ぎ、仕事盛りといった様子だった。結婚もせず、子供もいなかった。

 

身長が160cmとそこそこ高いけれど人を寄せ付けやすい優しい顔をしていて、無理なお願いをされると思わず出てしまう困り眉は見事に45度を描いて魅力的で、自身の成功による自信と程よく近づきやすい人当たりの良さもバランスが良かった。「ああこの人はさぞモテるのだろうな」と思ってしまうような人だったと記憶している。

 

その女性の中の奥底に沈んでいた「澱」のようなものを見たのは、あるシステムを開発するための打ち合わせの時だった。女性とその部下(男)の2人と僕がシステムの仕様について確認をするために、部下が作った仕様書を見ていた時だ。「ちょっとごめんなさいね」と一言発した後に、女性はその部下をこき下ろし始めた。僕という他社の人間がいるのに、だ。

 

「ここの仕様、おかしくない?なんでもっと◯◯が考慮されてないの?」「これ事前に確認すべきだったんじゃないの?なんでそのまま書くの?」「ここはどうやってデザインすれば良いの?ねえ教えてくれる?」と語尾がキツ目に男性に問い始めた。そして、苦笑いをして、「顔を覗き込んで」、一言一言、嫌味を添えて男性を攻撃し始めた。そこには部下への叱責というよりも、生産的でない、不当に人を貶めるだけの、ただの嫌がらせに等しい罵倒に近かった。

 

あの時の居心地の悪さといったらなかった。穏やかだった会議室の雰囲気は一変して重苦しいものになり、息をするのも憚られた。部下はうつむき、歯を食いしばって黙ってしまった。僕も何と言って良いかわからず、資料にじっと集中している素振りをしているしかなかった。その美しい顔、愛らしいとも言える唇から汚らしい言葉が次々と出てくるのを聞いているのは、控えめに言っても耐えられるものではなかった。

 

別に僕は不細工な女性なら耐えられるとかそういう話をしているのではない。吉田兼好が述べているように、容姿の美しい人から残念な本性が見えてしまった時のがっかり感と、いたたまれなさは尋常ではないということが言いたいのだ。

 

容姿が綺麗故に普通の人には見えていない暗い、薄汚れた世界を見てきて、成長の仕方を間違えてしまったのだろうか。わからないな。でも、優しい顔の裏にどす黒い感情を抱え、醜い姿を露呈している彼女を見ていると、なんだか怒りや悲しみを通り越して同情の念が湧いてきたものだった。ああ、こんな人と今後また出会うことのないようにしたいものだ。吉田兼好も自らの人生の中で、そういった人物にたくさん出会ってきたのだろうか。考えていると、隣に吉田兼好がいるような気分になってきた。あなたの遠い目が、なんだか想像つきます。